一人暮らしごっこ

自宅は秘密基地

自由と不安と目標と

今日で仕事を退職します。ずっと辞めたいと言っていましたが、やっとこの日が来ました。
最初からそうではなかったけどやっぱり最終的に私はいい人に恵まれます。
職場の人達はいつも優しくて未熟な私を支えてくれました。本当に感謝しています。
人間関係のストレスが多い現代ですが、私は人間関係のストレスで退職するわけではありません。職場の人とは一緒に働き続けたいと思っています。
退職してからの予定は未定です。一気に自由になると何をしていいのか分からないです。
せっかく辞めたのだから何かすごいことをしなければいけないとか、職場の人に恥じないようなことをしなければいけないと考えていましたが、それだと自分を追い込んでしまいそうなのでもう少し力を抜いて、やりたいと思ったことや納得したことができたらそれがいいんじゃないかと思います。
追い込まれたら見えるものも見えなくなります。自分の心に気付けなくなります。
力を抜いた状態の方が先が見えやすそうな気がします。
1年後の6月までにTOEICで600点取るぞ。まずは9月に試験があるので今の実力を試します。結果ひどそう。なんせHow are you?と聞かれて答えられませんでしたからね。ははは。

不甲斐ない

今自分のどうしようもない不甲斐なさに気付いて居ても立っても居られなくなった。
10年前、誕生日に本をもらった。当時付き合っていた彼に。
その時は高校受験の時期で、私の誕生日は冬だからもう目前という時期だった。そんな中でも勉強に身が入っていなかった。
彼がくれた本は勉強法が書かれている本だった。重要なところに線が引いてあったり、付箋がつけてくれてあったり、応援メッセージが入っていたりした。でも、私はその本を読まなかった。間近の受験勉強にも身が入らないのだし本を読む習慣もないし、なんだか難しそうな本だったから。
一昨日初めてその本を読んだ。もともと彼が使ってた本だったようで赤ペンで重要なところに線が引いてあった。それと青ペンで線が引いてあるところがあって、青ペンが引いてあるところには付箋が付いていた。そしてその青ペンの線は赤ペンの線に比べるとまっすぐだった。それを見て気付いた。彼なりに私にとって必要だと思うところをピックアップしてくれてあったのだと。自分も受験勉強があって人のことを構う必要はないのに受験勉強に身が入らない私を見てプレゼントしてくれたんだと思ったら、自分の不甲斐なさに泣きたくなった。でも私が悪いのに泣くのはおかしいと思って堪えたけど、文章にしたらやっぱり泣けてきた。
彼が留学したいと考えてることを知っていつか別れるつもりで付き合ってるのかと考えていて当時からメンヘラだったが、こんなに心のこもったプレゼントをしてくれていたのにそんなことを考えていたなんて大馬鹿者だ。
彼の優しさに10年経ってから気付くなんて遅すぎる。不甲斐なくてたまらない。なんで読まなかったんだろうと後悔がこみ上げてくる。好きな人からもらった心のこもったプレゼントを粗末にしたことが申し訳なくて仕方ない。そして私は10年経ってまた彼を傷つけてしまった。ごめんなさいとここに書くだけでは到底済まなくてどう償ったらいいのでしょうか。どうしたらいいですか。
どうしてこんなに人を思うことができないんでしょうか。自業自得なのに涙が止まりません。

生きるが当たり前か、死が当たり前か

『あなたが何気なく過ごした今日は昨日死んだ人がどうしても生きたかった明日』
たまにみるこの言葉、最初に見たとき意味が分からなかった。旦那はいらないけど子供は欲しいって言葉と同じくらい分からない。何言ってだこいつと。私が過ごした今日とその人がどうしても生きたかった明日は別物だしなんか押し付けがましいしお涙頂戴感を感じてしまって苦手。
訃報を聞くとどうして今この人が亡くならなければならないんだろうと思う時がある。記憶に新しいのは小林麻央さん。
愛する子どもがいてこれからもっと一緒の時間を過ごすのにどうして今彼女なんだろう。そこは私でもいいのに。生きる理由がある彼女となんともない私の明日を交換したくなる。
でも私が逆の立場だったら、だったら変わってくれよって逆ギレしたくなる。偽善ぶってんじゃねーぞと。
そしてこの言葉を考えた人は愛する人を亡くしてどうしてこの人が亡くなってあの人が生きてるんだろうって憤りを感じて、日々を大切に生きて欲しいと思って言ったのかもしれない。
身近な人の死に直面して淡々としてるのは受け入れてるからじゃなく、実感してないからなんだよね。それをよく勘違いしてしまう。
死が来ることは怖いけど、生き続けるのも辛い。だから死が来てくれることは感謝すべきことだって意見もあって、はぁなるほどな〜って。そう思うと少し怖くなくなる。
人生に終わりがあると思うことで人生に張り合いが出る、死んでもあの世で生き続けると思うことで死が少し救われる。
その人の最期のときに関わる仕事をしてるんだって今更実感した今日です。

最高にブスだけど最高なブス

テレビで衝撃的なブスを見た。それも双子。
どうやらCHAIというガールズバンドのうちの二人らしい。
 例えば石原さとみとか北川景子とかガッキーとか。ぱっちり二重で鼻筋が通ってて肌が綺麗でスタイルが良くて。
昨今はそれらが絶対的に可愛くてそれをみんなが目指している感がある。一重はダメ、デブはダメ、鼻ぺちゃはダメ。まぁ肌は綺麗な方がいいね。
そこを目指して近づける人はいいけど、近づけない人は落ち込む。私はブスだから…と。
田舎から出てきてすぐの専門学生の頃、新宿駅を歩くと道ゆく人が全員美人だった。印象的だったのは肌が白くて綺麗ってことで、何を塗ったらそんなに綺麗になるんだろうって思ってた。圧倒的な己のブスさを自覚した。美人の順で彼氏ができるなら、あるいは結婚ができるなら私は一体何位なんだろうなんて考えた。どのくらい下の方にいるんだろうって。
”絶対的な可愛い”に近づけない自分はどんどんネガティブが膨らんでいった。終いにはエビちゃんが双子って事実だけで自分の存在価値をなくした。ブスが存在する意味が分からなかった。
そんなブスから見ると彼女たちは超かっこいい。そして気が楽になる。可愛いは一つじゃない、コンプレックスそのままのあなたが可愛いんだよって。これを美人が歌ったところで何も響かない。衝撃的なブスが歌ってるからこそ響く。
よく言ってくれたぞブス!よしいけブスー!!!ってなる。
彼女たちのインタビュー記事で自分たちは中の下だと思うなどと書かれていたが、そんなもんじゃない。下の下だ。少し高く見積もってるところや節々の自信が垣間見える発言になんだかモヤモヤと違和感。
でもそれは私の中にブスはくよくよしてなきゃいけないって意識があるからだって気づいた。
彼女たちも可愛いに近づけなくてコンプレックスに悩み心無い言葉を言われ存在価値が揺らいだことがあるんじゃないかと思う。でもその底から自分を肯定できるようになってNEOかわいく楽しく堂々と生きてることが羨ましい。
ほれちゃったって曲がMVも含めてとても素敵だったし好みだったしなんなら可愛く見えてくる。と思って静止画を見るとやっぱりきついけど。けどまた聴きたくなる。才能はブスを超えるようです。

たわごとにクソカッチン

「あなたが27歳になる頃、顔が良くて年収も良い優秀な男は青田買いされちゃってるから売れ残った男しか残ってないよ。」
今日職場のおばさんに言われた言葉です。さらに、
「○○(わたし)は結婚できないと思う」ですって。
ケツカッチンならぬクソカッチン。
結婚願望はそこまで強くない方だと思うけど、なんでそんなこと言われなきゃいけないの?
図星だからクソカッチン?それともやっぱり結婚願望がしっかりあるから否定されてクソカッチン?
確かにその傾向はあるのかもしれないけど、青田買いされるからって急いで婚活しなきゃとはならないし、そもそも結婚してる人がしてない人よりも優れてるみたいな前提で話してますけどそれは何?離婚する可能性だって十分あるのに。
これを言ってきたおばさんはバツ1再婚で、再婚後の方が幸せに暮らしてるのにどうしてそんなことが言えるんだろ?Why??
こういうこと言うおばばにはなりたくないね。ひとつ学んだぜ。
そんでもって私の真冬の恋はあっけなく終わりましたけど。本当に合わなかったんだなあと。来来来世くらいに今度はハッピーエンドな恋がしたいね。
ネガティブに考えることで予防線を張って傷ついた時にほらやっぱりねって落ち込みを軽減させる癖があったけど、それはべつに軽減してないらしい。予防線と実際に起こったのとで二重に傷つくらしい。だったらもうネガティブに考えるのやめるよ。
こうやってやなことがあったからって次必ず良いことが起こるとは限らないから油断せず行くよ。